カフカの小説には〝主人公〟が3人いる。ひとりは普通の意味での主人公、ふたり目は語り手、そして3人目は読者である。この3者がたがいの距離を微妙に変えながら展開するのがカフカの小説世界である。
語り手が〝主人公〟である以上、この語り手は、読者にむかって客観的な報告をするとはかぎらない。通常、語り手は、〝ありのまま〟を語り、読者をからかったり、韜晦(とうかい)したりはしないことになっている。『変身』の語り手が、「朝、胸苦しい夢から目をさますと、グレゴール・ザムザは、ベッドの中で、途方もない1匹の毒虫に姿を変えてしまっていた」と語れば、読者は、それを〝事実〟として受け取る。そういう暗黙の了解が前提されている。
しかし、カフカの小説の語り手は、冗談を言うかもしれないし、小説内の〝事実〟と異なることを語るかもしれないのである。つまり、この『変身』の場合であれば、「・・・毒虫に姿を変えてしまっていた、なんてネ、ハハハ」という含みで語ることもありえるということだ。
こうした語り手の特異性は、カフカのドイツ語が、19世紀から20世紀初頭のチェコ領内に浮島のように存在したユダヤ系ドイツ人コミュニティ独特の言語、チェコドイツ語であったことも関係している。標準ドイツ語の側からすると、「パサパサの紙のような」印象をあたえるチェコドイツ語の特性をカフカは逆手に取り、標準ドイツ語とは異質のアイロニーや人工性をとり込んだ。
カフカの小説では語り手はつねに饒舌であるが、『城』のように、主人公の体内にもぐり込んで、あたかも主人公と一体をなしているかのような素振りをすることもある。これをうっかり主人公の内的独白のようなものと混同するととんでもないことになる。『変身』の場合は、一見、古典小説のように、弁士的な解説口調なので、これまた、読者は簡単に乗せられてしまう。いずれにしてもカフカの語り手には要注意である。
この語り手は饒舌なだけでなく、その身ぶりも多彩である。それは、その語りのあいだから透けて見える身ぶりであって、ト書きが書かれているわけではないが、少なくとも、お前は誰なんだという問いを発したくなるほどあつかましいこの語り手は、ソファーにくつろいで淡々と物語っているような古典的な語り手とは全然ちがうのだ。
『変身』は、家族のような暗黙の了解が前提されている者どうしのあいだですら、コミュニケーションが一瞬にして途絶えてしまうもろさと、その断絶の複雑な屈折をあらわにする。カフカの世界では、安心して寄りかかれるような基準はどこにもない。グレゴールは、巨大な甲虫に変身してしまったと語り手は言うが、本人はそのことに気づいているかどうかはわからない。グレゴールの仕草や行動の説明は、あくまでも語り手の観察ないしは、意図的な〝歪曲〟にすぎない。
この語り手をどうとらえるか、詐欺師かパフォーマーかエンターテイナーか、はたまた多弁症の狂人なのかを決めるのは読者の役割であり、その加担の度合いが深まれば深まるほど、読者が〝主人公〟になる度合も強まる。カフカの小説は、アレゴリーや象徴やメタファーを形にしているのではなく、読者が作品への姿勢を変えさえすれば、作品そのものが変貌する即物装置である。
もし、語り手の〝報告〟を話半分に受け取るならば、ザムザが変身していない可能性だってありえる。そしてそのとき、『変身』は、病人や高齢者を〝座敷牢〟の〝囚人〟にしている家族のエクスキューズ(弁解)の物語にもなる。ヒキコモリであれ、認知症であれ、麻薬中毒であれ、家族のなかに〝厄介者〟が突如出現したときに見せる家族の反応と対応のすべてがここに潜在している。
カフカ自身は、『変身』を失敗作だとみなした。その理由は、主人公グレゴールが、終始、家族のなかの厄介者としてあつかわれ、そのまま破滅するというメロドラマのパターンを踏んでいるからである。カフカは、厄介者であることのもっと積極的な可能性に興味を持っていた。
このままだと、たとえば、主人公が甲虫になったのち、人間の家族と共生してしまったというような話に飛躍するのは無理である。会社をさぼること、怠業としてのヒキコモリは、ここでは敗北に向かう。これに対して、晩年の『城』では、主人公は、ある意味、ずっとさぼり続けたまま居直る。語り手も、主人公Kの体内にもぐりこんで表には姿をあらわさないようにしている。ここには21世紀を悩ます社会症候群のひとつであるヒキコモリへの根源的な転換が示唆されている。
【筆者プロフィール】
粉川哲夫 KOGAWA Tetsuo
東京の下町に生まれ、渋谷で育つ。疾風怒涛の青春を送り、上智大学、早稲田大学で哲学を学ぶ。メディアと都市と電子テクノロジーを現場にして批評、自由ラジオ、ラジオアートに横断的に関わる。https://anarchy.translocal.jp